『国語』改革について思うこと
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今、教育の現場では、あらゆる学習において、社会に出てからの実用性を重視する実学志向が強まっている。だが、基礎知識や教養、物事を深く考える習慣を身につけさせないのであれば、先の読めない変化の激しい時代を柔軟に生きることは困難だ。『教育現場は困ってる――薄っぺらな大人をつくる実学志向』(平凡社新書)の著者・榎本博明氏は、学校教育の在り方に警鐘を鳴らす。今回はシリーズ5回目で、「実学重視に走る教育の危うさ」について問題提起する。
英語の民間試験の話やコロナ禍での9月入学の話やら問題の多い学校教育の改革。またまた問題点の多そうな(というか問題点しかないような)改革をしようとしています。
簡単に紹介すると、小説をなくして、評論を減らして、生徒会の規約や自治体の広報など「実用的な」文章の読解力をあげましょう、という趣旨のようです。
それに対してもちろん反対しておられる方がいまして、
日本文藝家協会の出久根達郎理事長は、「文科省は本気でそのような教科書を作るようなので、今のうちに大きな反対ののろしをあげなければいけない。駐車場の契約書などの実用文が正しく読める教育が必要で文学は無駄であるという考えのようだ」と懸念を示している。
というような反論があります。
この改革はグローバリズムや緊縮財政にも似た論点があるのではないかと思います。グローバリズムは目先の利益の最大化ばかりを求めて、緊縮財政とセットで、平時の「余裕」をどんどんと削っていきます。保健所も病院のベットも公務員も全て「ムダ」というレッテル貼りをして、削減してきました。
今回の『国語』改革も、すぐに使うことのできない小説や評論は「ムダ」だから切り捨ててしまおう。すぐに使える能力を身につけるために、実用的な文章を読ませようとしているわけです。
変化の激しい時代だからこそ「ムダ」を省いて「実用的」なものを求めているそうですが、これは全く逆の主張も出来るわけです。つまり、変化の激しい時代だからこそ、さまざまな文章に触れ、教養を身につけることで対応していくことができるのではないか、と。
どうなるのか分からないのであれば、より一層さまざまなものに触れることで自らの引き出しを増やしていくようにするべきではないでしょうか。
なんでもかんでも数値化して効果があるものばかりを求めていたら、人間はロボットと変わらなくなってしまうのではないでしょうか。小説を通して得られる内面の豊かさといったものは決して数値化出来るものではないですし、いつ効果が表れるのかなんて分かりません。
人間というのは一人一人が自分だけのオリジナルの物語を作って生きていっています。自分では平凡な人生と思っていても、生まれた環境、育った環境が違う人からすれば興味を惹くものとなるのではないでしょうか。そういう事を考えたときに小説を学ぶということは非常に意義のあることではないかと思うのです。
9月入学や英語の民間試験であれば、さまざまな利権、ビジネスが後押ししていることはよくわかるのですが、今回の『国語』改革は誰がどういった目的で後押ししているのか、お金の流れがよく分からないんですよね。
「実用的」な文章を教育に取り入れるのはそこまで反対しませんが、小説や評論をなくしてまで取り入れるというのには反対です。
『国語』改革が見直されることを祈ります。